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愛と信頼。その②

「愛と信頼①」と題した前回の続き。

 

前回は、人の美しき奉仕奉公行動についてあれやこれやと綴りました。

 

まとめてみると、以下のようなことを。

 

・愛と信頼はセットもので行動される。

・が、一部例外もある。

・愛と信頼がセットもので行動され、

 それが互いに為されていれば、

 私的人間関係はもちろん、仕事の上でもヨキ循環を生み出す(理想)。

・しかし、信頼は、裏切られることもある。

 信頼を、裏切ってることもある………云々。

 

そして、人生には「まさか」という坂がある。

…と綴ったところで終わっていました。

 

そう、人生には「まさか」の坂が本当にある。

 

ちなみに、「人生にはまさかという坂が…」の出典は誰なのかは明確にわかっていません。

意味あいは、予期せぬ事態を「まさかという坂」に例えていること。

 

今は、テレビドラマのセリフでも使われているくらいですから、

聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。

 

私は約7年位前に母から教わりました。

 

母は、小泉純一郎元首相や、

作家の瀬戸内寂聴さんなどの著名人が、

スピーチ等でよく話されていたことから、

このフレーズを知ったようです。

 

母が教えてくれた時の私は、

心身共にサイアクのコンディションの時でした。

 

当時の私は、

仕事上で関わりのある人物に抱いていた「信頼」がガタガタと崩れ落ち、

失望感、絶望感MAX、ズタボロ。

 

単純に言葉がらみのイザコザではなく、

金銭、時間的損失等、諸々あり。

 

そして対象となるその人への怒りの感情が日に日に強くなり、

眠れない、過呼吸、耐えがたい頭痛といった身体的な症状のほか、

歩行中に怒りに苛まれると周囲が見えなくなり、

車にはねられそうになったこともありました。

 

そんなズタボロ状態の私を見た時の母が、

私に伝えたのが「人生にはまさか…」のフレーズ。

 

「人生にはまさかという坂があるの。

あなたは今がまさにその坂にいるってことね。

その人を長いこと信頼していたからこそ、

失望が大きくて坂を転げ落ちた。

でも、そもそも信頼していなかった人ならばどうだろう?

今ほど失望してないよね?

こう考えてみたら?その人は信頼に値しない人間だったってこと。

あなたがカンチガイして信頼していただけ」

 

母にこう言われた後、

私の目の前を覆っていた墨色の幕のようなものが少しずつ消えていきました。

 

続けて母は、

「人間にはカンチガイはつきものじゃない?

例えば、あるお店で本物の真珠だという

売り子さんを信頼して買ってみたら、

実はプラスチック玉、イミテーションだった。

ニセ真珠返却しようとしてお店へ行くと、

既に売り子は逃げててもぬけの殻。

買った人はまさか~!って叫ぶよね、悔しいよね、

残念ながらそういうことする人間は世の中にいる。

あなたもまさかの坂で、そんな人間を知るという勉強になったよね」

とこんな例えを淡々と。

 

ここで私は腑に落ちました。

母の例えにあったお店の人間は、

人と人との信頼へのとらえかたが、

誠実な人とは違う。

(素性がよろしくないという言い方もアリ)

 

人から信頼を裏切られた云々いわれても、

「はぁ?ウルセー!」とでもいいながら、

パフェとか餃子とか食べていたりしているでしょう。

 

責任追及されて「こりゃヤベー」となっても、

心からの謝罪や物質の返還はなく、

ひとまずスタコラサッサと逃げることに全精力使う。

そうやって生きていくことがその人の倫理。

 

そして、

売り子を「信頼」して購入したニセ真珠を握りしめながら、

だまされた~!裏切られた~!

と憤慨&落胆しているのがかつての私と同じ。

 

つまり、「信頼」というものは、

その感情を抱く側の人間が、

自分のココロに「信頼」を置こうか置くまいかを

自分自身で決めていること。

 

裏切られた側は、

心底悲しいけれど、辛いけれど、腹立ちまくるけれど、

相手にとってみると、

「信頼してたのに」といわれても、

「そんなん知らんがな」ということ。

 

7年前の私の場合は、

私が抱いていた「信頼」を裏ぎられたー!

と叫んで自らまさかの坂に転落していましたが、

俯瞰してみると、

ズタボロ状態となったのも、

自分の脇の甘さが引き起こしたことなのだと今は思えます。

 

まさかの坂に転落した私のその後は、

母のアドバイスが効いたのか、

なんとかズタボロ状態から回復することができました。

 

転げ落ちた地面からすぐに這い上がろうとはせず、

少しとどまってみると(仕事を減らして休息を増やしていた)、

そもそもあの時の「信頼」は自分のカンチガイだったのだと、

私自身もその人の要求に応えられていなかったこともあったのだろうと、

完璧ではない自分の落ち度も認めることができるようになりました。

 

冷静に振り返られるようになるまでは

相当な月日がかかりましたが、

その時のズタボロ経験を

乗り越えたからこそ伝えられるエピソードが増えて、

仕事の範囲が広がっていきました。

 

私が担当するコンプライアンス研修、

アンガーマネジメント研修、

ハラスメント研修にも、

実体験を事例として生かすことができますから。

(人物が特定されるような社名や個人名、具体的な内容は伏せています)

 

実際に、

研修で伝えた辛い経験を乗り越えたエピソードが、

「受講者に響きました!」

とリピート依頼をいただく機会が増えて、

自分の失敗こいた~経験を

人様のお役に立てる仕事へと変えていくことができました。

 

乗り越えた先で、

マイナスはプラスに変わったということですね。

 

とはいうものの、

私が経験した出来事自体は、

当時相談した法律家に提訴を進められたレベルで、

法的に許されることではなく、

私と同じような損害を受ける人がいてほしくはありません。

 

なので、出来事自体は許されることではないと今でも思っています。

 

それでも、スタコラサッサと逃げた相手を恨む気持ちはもう消えました。

むしろ、哀れみの感情があります。

 

例えるならば、

ドラマや映画のラストで、

犯人の思考を形成させた生い立ちや過去に、

少しばかりの同情心が湧いてくる視聴者…あの瞬間と同じ感情かなと。。

 

ということで、

私の「信頼を裏切られた事件」は提訴をせずに、

被った損失は全て手放して自浄完了させましたが、

「信頼を裏切られた」とする出来事には、

人の数ほど様々な種類とレベルがあると思います。

 

もちろん、裁判で決着をつけるのが適する出来事もあるでしょう。

 

なので、

みなさん!私のようにまさかの坂で立ち止まって考えて!とか

信頼は自分のカンチガイだと認めて手放して自浄して!

などと押し付けるようなことは言えません。

 

それでも経験を通して、確かに言えることは以下の通りです。

 

自分が抱いた「信頼」が裏切られることはあっても、

やり返すのではなく(一時は弁護士のススメで考えましたが…)、

ココロの傷を回復させて乗り越えていくことができれば、

自分の人生の経験値は上がり、

胆力と知恵が鍛えられ、

その方法を「教えてー」とリクエストされることが増えていき、

仕事や人間関係に生かすことができるようになりました。

 

辛くてしんどくて、

しなくてもいい経験だったかもしれないけれど、

痛みの分だけ善き勉強&人生の糧になったと断言できます。

 

私は両親や親族の愛情に包まれた温室で育ってきたからなのか、

基本的に人を疑わない、

人を「信頼」しやすい天然資質があると、

人生の大先輩から言われたことがあります。

 

そうかもしれない。

 

きっとこれからも私は凝りもせず、

人や何かを「信頼」した上での行動をとっていくのでしょう。

 

しかし、学習した分、

以前よりはかなり慎重になっているので、

やたらめったに「信頼」スイッチを入れません。

 

それでも、自分のココロに「信頼」が芽吹いた時は、

自分が育てた感情ということを忘れず、

かつ相手の言動に疑問が生じた時には、

「信頼」スイッチを早めにOFFにする勇気ももっておこうと自分に誓っています。

 

まさかの坂を転げ落ちるのは痛すぎるから~

 

本日も最後までお読みいただき、

ありがとうございました!